2024年 03月 28日
山手の教会の窓(windows of an uptown church )


お説教のタイトルは「神の赦し ― ユダとペテロ」。
数年前、自分でも考えたことのある重いテーマです。
(バイリンガル狂言「猶陀(ユダ)」2019年作)
「マタイによる福音書26章21-25節;31-35節」のコピーが配られます。
受難節第四主日、二人の弟子の裏切りについて考えるのにふさわしい日でした。
今日は聖木曜日、1994年前の今日、イエスは弟子たちに裏切られたのです。
AとさかなとΩが浮き彫りされた説教壇
一番弟子ペテロは、自分だけは主イエスを裏切らないと言いながら、
一番鶏が鳴く前に三度も、イエスを知らないと言ってしまいました。
ペテロは激しく泣き、悔い改め、主の教えを宣教する者となりました。
なぜ弱虫ペテロは悔い改め、強くなれたのでしょう。
それは、鶏が鳴いた瞬間「(主は振り向いて) ペテロを見つめた」からです。
(「ルカによる福音書22章61節」)
直訳すると、(振り返って主は)「ペトロの顔を見た」
主の眼差しを受けた時、ペトロは悟ったのではないでしょうか。
主が自分の弱さをとっくにお見通しで、すでに赦してくださっていたことを。
主は見たのです。きっと澄み渡った、あたたかな眼差しで、弱虫ペトロを。
ペテロのピンクとユダのブルーを分けるものは…(香櫨園)
一方、ユダは主イエスを銀貨三十枚で祭司長らに売り渡しました。
捕らえられたイエスが有罪判決を受けると後悔し、銀貨を返そうとしますが、
祭司長らから「知った事か、お前の問題だ」と突き放されてしまいます。
「お前の問題だ」は英語では”You see to it!”(お前が引き受けよ)。
ユダは見たのです、己の罪を、悲痛な目で。
そして、自分で自分の決着をつけました。自裁したのです。
自分で自分の罪を引き受ける人は、自分で自分の決着をつけるしかなくなります。
ユダに限ったことではありません。
罪が大きいとか小さいとか、深いとか浅いとかに関わりなく、
人はすべて罪から免れることはできないのですから。
ここで、こんな身近なエピソードが語られました。
とある牧師さんは少年の頃、友達の家で飼われている鳩と遊んでいました。
友達が部屋を出るとき「籠を開けないでね、逃げてしまうから」と言ったところ
少年はかえって誘惑にかられ、籠を開けてしまいました。
鳩は籠から出て窓から逃げ去り、少年も友達の家から逃げ出してしまいました。
それからずっと友達を避けて暮らしていましたが、ある日ついに鉢合わせしてしまいます。
逃げ場のなくなった少年が観念して謝ると、友達は言いました。
「そんな事をまだ気にしていたの。あの鳩は僕によく慣れているから、口笛一つで戻って来たよ」
少年はずっとずっと前に、すでに許されていたのです。
ただ、そのことを知らずに、長い間良心の呵責に苦しんでいたのでした。
ユダはこの少年のように苦しんで、苦しんで、
イエスさまがとっくに許してくださっていたことに気付かず
花蘇芳の木で縊れて死んでしまったのではないでしょうか。
もっと早く気づいていれば、自らを殺めなくてもよかったのでは― ここで
主の眼差しに気付くことの大切さを教えてくれる讃美歌が歌われました。
礼拝後、あの少年の娘さんに声をかけられました。
少年は心の広い父となり、心配性の我が子を大らかに励ましてきたのだとか。
小心者のsnowdropもうれしくなりました。
いまユダは地獄の底にいるのでしょうか?『神曲』に書かれているように?
礼拝の後で質問すると、こんな答えが返ってきました。
ユダもイエスさまに許されてあるのだと。
そして、たとえ洗礼を受けていなくても、
人はすべて赦されてあるのだと教えてくださいました。
すべての人がもつ悔い改めの痛みは きっとそのためにあるのでしょう。
よき知らせ ― 福音を抱き教会のステンドグラスの扉を開ける
with a gospel,
a good news from God,
I open
the church's exit door
with brilliant stained glass
大いなる重荷の一つふうはりと取り去られたりミモザの午後に
銀葉アカシア
このひとは生きてゆけるかと憂ひきと 二十年(はたとせ)前のわたくしのこと
(All Rights Reserved)
by snowdrop-uta
| 2024-03-28 18:28
| 四季の行事(Easter)











